1 名前:
西独逸φ ★[sage] 投稿日:2011/08/02(火) 18:22:18.78 ID:???0
「麦と兵隊」などで知られる作家の火野葦平(あしへい)が、終戦日とその前後に手帳に記した
メモが見つかった。敗戦を悲しみ、自らを責める様子が伝わる。前日に報道統制に関する記述も残り、
葦平の戦争観を知る貴重な資料になりそうだ。
葦平は日中戦争従軍中に「糞尿譚(ふんにょうたん)」で芥川賞を受賞。国民的作家となった。
戦後は戦争協力者として公職追放になっている。メモは、遺族から遺品の寄託を受けた北九州市立文学館が確認した。
終戦日、葦平は苦しい胸の内をつづる。「この数日のこと、筆とる心にもならず。(略)歯噛(はが)みて唇を
やぶるといへども、胸ぬちの怒りと悲しみとは去らず。ああ、力足らず、誠足らずして、(略)罪、死に値す。(十五日)」
葦平は当時、福岡市の西部軍管区報道部に勤務。敗戦直前まで、報道統制の記述が残っていた。
前日14日のメモに「記事指導要項」(案)とし、「アクマデモ国体ヲ護持シ」「共産主義的社会革命的言論ハ徹底的ニ
取締ル」とあった。
文学館の中西由紀子・主任学芸員は「敗戦への憤怒と国への至誠が足りなかった自責の念が伝わる」と話す。
ソース
asahi.com
http://www.asahi.com/culture/update/0801/TKY201108010592.html土と兵隊・麦と兵隊 (新潮文庫)4 名前:
名無しさん@12周年[sage] 投稿日:2011/08/02(火) 18:26:44.52 ID:lQUteg400
なんかかっこえー
5 名前:
名無しさん@12周年[] 投稿日:2011/08/02(火) 18:27:24.19 ID:z4uoQddH0
お前らもなんか書き残せよ
100年後、ニュースになるぞ
7 名前:
名無しさん@12周年[] 投稿日:2011/08/02(火) 18:28:43.57 ID:w91FuzMD0
>>1
火野 葦平(ひの あしへい、1907年(明治40年)1月25日 - 1960年(昭和35年)1月24日)は、昭和期の小説家。本名玉井勝則。
人物:福岡県遠賀郡若松町(現北九州市若松区)で沖仲仕「玉井組」を営んだ玉井金五郎の三男二女の長男として生まれる。
自伝的作品『花と竜』等に書かれているように父・金五郎は現在の愛媛県松山市の出身、母・マンは現在の広島県庄原市の出身。
旧制小倉中学校(現福岡県立小倉高等学校)卒業、早稲田大学英文科中退。
『糞尿譚』で芥川賞を受賞、その後の『麦と兵隊』は大きな評判をよび、
『土と兵隊』、『花と兵隊』とあわせた「兵隊3部作」は300万部を超えるベストセラーとなった。
著述業と共に「玉井組」二代目も務める。
なお、妹の息子(火野の甥にあたる)が、ペシャワール会の医師中村哲である。
三男・史太郎は、旧宅を利用した記念館「河伯洞」の館長。
1937年(昭和12年)、日中戦争に応召し、出征前に書いた『糞尿譚』の第6回芥川賞受賞を陣中で知る。
戦地で行なわれた授賞式には日本から小林秀雄がおもむいた。その後報道部へ転属となり、軍部との連携を深めた。
戦闘渦中の兵隊の生々しい人間性を描き、戦地から送った従軍記『麦と兵隊』が評判を得て人気作家となり、
帰還後も「兵隊作家」ともてはやされた。
太平洋戦争中も各戦線におもむき、従軍作家として活躍した。
攻略直後の南京に入り、それに至る進撃路において捕虜が全員殺害される様子を手紙に書いている。
戦後は、「戦犯作家」として戦争責任を厳しく追及され、1948年(昭和23年)から1950年(昭和25年)まで公職追放を受けるが、
追放解除後も、若松の「河伯洞」と東京の「鈍魚庵」を飛行機で往復するなど活動し、
九州男児の苛烈な生き方を描いた自伝的長編『花と竜』や自らの戦争責任に言及した『革命前後』など
数多くの作品によって文学的力量を発揮し、再び流行作家となった。
17 名前:
名無しさん@12周年[] 投稿日:2011/08/02(火) 18:58:48.70 ID:BxDByyNx0
ついでに徳富蘆花にも目を向けてやってくれ。
18 名前:
名無しさん@12周年[] 投稿日:2011/08/02(火) 19:12:13.82 ID:b7pC6ioo0 [2/3]
>>17
『不如帰』の黄海海戦の描写はなかなか迫真だったな。
22 名前:
名無しさん@12周年[sage] 投稿日:2011/08/02(火) 19:42:13.11 ID:B1bkYjIP0
>力足らず、誠足らずして、(略)罪、死に値す
どこかの誰かに聞かせてやりたい言葉だな
元スレURL:http://raicho.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1312276938/
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