1 名前:
再チャレンジホテルφ ★[] 投稿日:2012/08/28(火) 23:49:40.59 ID:???0
本紙連載小説「甲斐姫翔る」の主人公で、今秋に上映される行田市の忍城を舞台にした
映画「のぼうの城」にも登場することから今、話題を呼んでいる甲斐姫。
豊臣秀吉が主宰した有名な「醍醐の花見」に列席した甲斐姫が詠んだ可能性のある短冊が、
京都市伏見区の醍醐寺に保管されていることが分かった。
彼女に関する史料はほとんど残されていないのが現状。「甲斐姫翔る」の筆者で、
鳩山町在住の山名美和子さんは「甲斐姫の短冊にほぼ間違いないだろう」とし、
「彼女の活躍はこれまで伝説とされてきた。でも短冊を見て、確かに甲斐姫がいたのだと実感できた」
と話している。埼玉の戦国ヒロインをめぐる歴史ロマンの夢は、深く、果てしなく広がるばかりだ。
甲斐姫は忍城主・成田氏長の長女。忍城は、天下統一を目指して小田原攻めに
打って出た豊臣秀吉の大軍を相手に奮戦した。しかし、従っていた小田原城の北条氏が
秀吉に降伏したため、成田氏は城を明け渡し、甲斐姫はのちに秀吉の側室になったとされる。
和歌が詠まれた「醍醐の花見」には秀吉、世継ぎの秀頼、正室の北政所(きたのまんどころ)、
側室、前田利家とまつ夫妻らと1300人以上の侍女が列席した。
短冊は縦36・5センチ×横5・5センチ。国の重要文化財に指定されている。
歌は計131首。秀吉、秀頼から始まり、120番目に甲斐姫が詠んだと思われる和歌がある。
「合おひ乃松毛としふり佐くら咲 花を深雪能山農のと気佐」-。
秀吉が招待した女性らによる華やかな花見の宴の様子を歌っている。
歌は変体仮名文字で書かれ、署名には「甲斐」ではなく、「可(か)い」とある。
>>2へ続く
2012年8月28日(火)
https://www.saitama-np.co.jp/news08/28/02.html2 名前:
再チャレンジホテルφ ★[sage] 投稿日:2012/08/28(火) 23:49:57.42 ID:???0
>>1の続き
醍醐寺の学芸員田中景子さんは「当時、女性が文字を書く時は変体仮名を
使っていたので、署名が仮名でも不思議はない。しかし『かい』が
甲斐姫であるかは史料がないため、同一人物であるかは分からない」と説明する。
一方、山名さんは、短冊の歌を甲斐姫が詠んだとする根拠について、
隣の119番目の短冊に「い王(わ)」と署名されている点を挙げる。
「『い王』は、一族の成田助直の娘・小石(おいわ)の方ではないか」
小石の方は秀頼の側室となり、奈阿姫(なあひめ)を出産。
奈阿姫は出家後、天秀尼(てんしゅうに)となるが、彼女を長年養育したのが
甲斐姫だったとされる。「偶然ではなく、 成田家と血のつながりのある
『かい』と『いわ』が一緒に列席したとみてもいいだろう」と山名さんは説く。
さらに、二つの短冊の字体が似ている点にも注目。「5、6歳の小石が歌を作るには無理がある。
小石を身内の子として、大変かわいがっていた甲斐が代詠、代筆したとも考えられる」と指摘する。
山名さんは短冊を見て「甲斐は小石と一緒に秀吉の天下が続くことを願い、
秀吉の栄華の一こまに身を置いていたのでしょう。
やっと彼女の気持ちに直接触れることができたような気がします」と語った。
>>3へ続く
3 名前:
再チャレンジホテルφ ★[sage] 投稿日:2012/08/28(火) 23:50:06.27 ID:???0
>>2の続き
醍醐の花見 豊臣秀吉が1598(慶長3)年3月、真言宗の醍醐派総本山の
醍醐寺で行った歴史的に有名な花見。秀吉は花見のために700本の新しい桜を植え、
三宝院の建物と庭園を造り、盛大な宴を開いた。息子の秀頼や正室の北政所、
側室の淀、三の丸らをはじめ1300人以上の侍女が参加したといわれる。
その2年前、京都や大阪を襲った大地震で、秀吉のいた伏見城内で
約600人の女性が亡くなっており、彼女らの冥福を祈る意味もあったとされる。
秀吉は花見の5カ月後に病死。最後の豪遊としても知られる。
■「貴重な手掛かり」 歴史解明に期待
忍城の甲斐姫が、豊臣秀吉の主宰した「醍醐の花見」で詠んだとみられる短冊が京都の醍醐寺に
あったことについて、地元の行田市では「甲斐姫を知る上で貴重な手掛かりができた」と喜んでいる。
短冊の発見を聞いた工藤正司市長は「甲斐姫が自分の存在を主張しているような気がした。
忍城開城後に甲斐姫の歩んだ人生がもっとひもとかれていけば」とさらなる歴史の解明に期待を寄せた。
甲斐姫の研究に取り組む「忍城甲斐姫研究会」(沖田武久会長)広報担当の田代正人さん(58)は
「今まで行田には甲斐姫に関しての史料がほとんどなく、短冊が確認されたことは地元にとって大変有益なこと」。
そして「隣の短冊に小石の方と思われる名前があったことは、一緒に出席したとみることができ、
短冊は甲斐姫が詠んだ裏付けにもなると思う」と話す。
「忍の行田の『昔ばなし』語り部の会」会長の永島(えいじま)健雄さん(72)は
「醍醐の花見」を詠んだ短冊に「かい」の名前があったことに驚きを隠せない。
「史実的なものが出たことは甲斐姫研究の貴重な手掛かりになる。
今後は成田の系図を詳しく調べ、甲斐姫について研究していきたい」と話していた。
(おわり)